「トップランナー 細田守」の収録を見学した人のメモ

細田守 その42より。

間尺の話。これはハウル以降変わったこと。シャープでカチカチパキパキなものを作る事より、もっとゆったりしたもの、考える隙を持たせるものを。


サマウォの日の出の話。アニメだから出来る嘘、ではなく。アニメだからこそ描ける真実。
写真や実写ではそのままの映像を流すことでそのままのものが観客に伝わるが、どう見えるか、どう思えるかなどは観客の心情によって左右される。
ただアニメだと同じ風景を撮ったとしても、演出家の心情によって描写の仕方が変わり、その心情がそのまま観客にも伝えられる。
ロケハンをやって、そのまま使っている部分とそうでない部分があるのはそういう意味。


面白くないものを作ってよく脚本家のせいにする人がいるけど自分はそういうことはしたくない
演出というのはいくらでも面白く出来るし、音響・作画その他全ての人に「これをやってほしい」と指示を出していい、何でもやっていい権限がある。
故に必ず、最低限の「面白さ」を保障しなくてはならない。一番責任の重い仕事。


制作途中悩むことがあっても、コンテを描いたときの自分を信じて悩まないようにする。
実写と違って「あとで考えればいいや」が出来ないのがアニメ制作。コンテ段階で、どうしてもという場合を除いてほぼ完成系を作っておかねばならない。
コンテ段階で、実写でいう編集が終わった状態になっているのがアニメ。


OFFの話。実写と違ってアニメはOFFの効果が出やすい。
この効果が出やすいという話は、後の質問コーナーで影なしにも出てくる。
(影なし作画のおかげで木漏れ日などの重要な、印象付けたい影がより効果的になる。影有だとどうしても陰影の影が溶け込んでしまって効果が出にくい。
ただ影有を否定しているわけではなく、影自体は非常にエロティックなシルエットで美しいので、いつかやりたい。)
小池健のようなアメコミみたいなかっちょいい影とか。


TVと劇場では雰囲気、流れ、すべてが異なる。
TVではパキパキに編集したものの方がいいが、映画はもっとゆとりを持たせる(前述の間尺の話)


東映まんが祭りがなくなったのは残念。
東映にいるときによく言われたのが、20分の映画を作ることが出来れば、30分の映画を作ることができる。
30分のが出来れば60分のものを作ることができる。60分のものを作る事が出来れば長編アニメーションも作る事が出来る。
東映まんが祭りは短編の集まった形式のものだったので新人演出家のいい勉強場になった。
東映には色んなタイプの演出家がかなり多くいたので、そこから色々吸収できた。
東映は好きで本当は辞めたくなかったが、どうしても映画が作りたかった。映画を作るには東映を辞めるしか選択肢がなかった。
東映にいたままでは映画を作るチャンスがなかった。


ハウルの挫折によって、「作品は作り上がらないことがある」というのを再確認した。


OZのアイデアmixiが発端。
mixiの本人の代わりに表示されている画像は大抵の人が自分の写真以外のものを使っている。
その人を実際に知っているにも関わらず、その画像を見てるとその人の分身・その人そのものに思えてくるから不思議。
OZのアバター等はそこからきている。


時かけの話。
時かけを作った理由は、未来を体現する共通言語が昔であれば「21世紀」だったが、今は具体的にそういうものがない。
自分の考えた未来への希望は「若い女の子」。なので主人公はちょっとバカで、考えるより行動する女子高生にした。


オーソドックスなものを作りたい。
昔はトリッキーな誰も考えないようなものを作ろうと必死だった部分もあるが、ハウルで挫折してからは誰もが共感できる面のあるものを作りたいと思った。
たとえばSHIHOの選んだシーンでの真琴の心境。ああいう状況になったら誰しも「止まれ止まれ」と心から必死に念じるはず。
今まで当たり前のように出来ていたタイムリープが出来なくなり異様に焦る。ああいうのは誰しも共感できること。
タイムリープ出来る能力は「後悔」から生まれているもの。順調に生きてきていたとしてもどこかしら、誰もが後悔を持って生きている。

東映の話は結構カットされたみたいですね…。