冬目景『羊のうた』

もの凄い衝撃を受けました。この作者の最高傑作と言っても過言ではないはず(現時点では)。数あるコミックの中でも、これほどの勢いで読者を引き込む話は滅多にない。もはやコミックという枠をはるかに超えて、純文学として語ることのできる数少ない作品の一つだと思います。

もし…自分が無意識に、誰かに危害を加えるかもしれない人間になったらどうする?

ある家系に代々伝わる奇病。症状としては突然貧血のような目まいに襲われた後、他人の血が欲しくてたまらなくなる。悪化すれば理性も吹っ飛び、首筋に噛み付いてでも血を求めてしまう。発病すれば、いつ他人を襲ってもおかしくない。そして他人を傷つけないためには、自分から距離を置くしかない…。そんな悲しい運命を背負った姉弟の悲劇の物語です。 もし、ある日突然こんな病気になったとしたら。他人を守るためにこれまでの生活や友達、恋人を捨て、あらゆる人間から距離を置かざるを得ないとしたら。しかし実際は一人で生きて行けるはずもなく、もし誰も傷つけたくないのであれば、選択肢は一つしかない。…そう、これはどうしようもないぐらい暗い話です。明るい要素は何一つありません。希望も何も。 他人を傷つけることを恐れて距離を置く。大切に思うからこそ近づけないという悲しみ。自分は世間に受け入れられる存在ではない、という悲しみ。心の壁を作っているのは病気のためか、それとも…。

わたし達は、羊の群れに潜む狼なんかじゃない。 牙を持って生まれた羊なのよ。

必死で周囲から遠ざかろうとする姉弟。そんな姉弟を、自分を犠牲にしても救おうとする人々。複雑な人間関係、他人との距離感に悩み苦しむ彼らの姿は、まさに現実社会の自分たちの姿そのものです。自分は他人に受け入れられる存在なのか、誰かに必要とされる存在なのか。自分は誰かを愛したり、愛されたりする資格のある人間なのか…。 人間関係で悩んだ事が一度もない人には「単なる暗い話」としか映らないかもしれません。これを読んで真っ先に思い出したのは、愛するがゆえに婚約を解消したという哲学者のエピソードです。何となくですが、少しは分かるような気がします。 自分と他人、そして自分の存在意義。非常に重いテーマを扱った作品ですが、心理描写が巧みで、単なるドラマとしても非常に面白い。最初から最後まで一気に読めるはず。驚愕の結末が待っています。

羊の群れの中に紛れた狼は、さみしい牙で己の身を裂く━━━━